2019年12月14日土曜日

リレーコラム⑫

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第12回は磯野先生につづき、AAの橋口先生の登場です。






皆さんこんにちは!橋口です。勉強の息抜きにでも読んで頂けたら嬉しいです。

さて高校生の時の僕は他のアドバイザーの方々のように具体的な夢があったわけではなく、勉強もなんとなく人並みにやっている感じでした。

しかしそんな僕を変えたのは父親の言葉で、高3の僕はこれを勉強の原動力としていました。

僕の父は国公立医学部に現役合格している強者です。
そんな父からすれば、僕がそこそこにやった程度の成績では満足してくれないわけですよ。
「ふーんこんなもんなのか、ちゃんと勉強してるのか?」「やってるわ!!」「もっと努力しろ!!!」などと模試の度に大喧嘩。

そしてある日、喧嘩の中で僕は
「親父みたいな天才に凡人の俺の気持ちが分かるか?!」と言い返したことがありました。
すると父は
「俺が努力せずして医者になったと思うか?」と静かに返してきました。さらに
「俺は人並み以上に努力をしてきた、天才だとか云々は努力してから言え。」と。

この言葉こそ僕を努力の鬼に変えるきっかけとなった言葉でした。
それまでの僕は
「自分はどうせ凡人だから努力したって親父みたいな天才には勝てないのだ」とか
「努力してできなかったら自分に才能がないことが証明されるみたいで嫌だ」と才能を言い訳にしてどこか限界まで努力することから逃げているようでした。
でもこの言葉を聞いて天才だと思っていた父もめちゃくちゃ努力してきたのだと知り、努力の大切さと自分の努力の未熟さに気づいたのです。

「まず限界まで努力して、それから天才の親父を黙らせてやろう。」
そう心に決めて僕は勉強に打ち込みました。
もちろん現実は厳しいので気持ちを切り替えて頑張っても結果が出ないときもあり、また父に煽られ、死ぬほど悔しい思いをし、何度も泣き、何度も壁パンをしました。笑
でもこの地獄のような苦しみは限界すれすれまで努力をした証であり、それを心折れそうになりながらもさらなる努力で乗り越えようとしてきたからこそ、今の僕があるのだと思います。
才能とかを言い訳に辛くない程度の努力を続けていたら凡人以下で終わっていたかもしれません。逆にもう少し早くから頑張っていたらハーバード大学を目指せていたかもしれませんね。笑

これを見てくれている生徒の皆さんの中にも頑張っているつもりなのに成績が伸びず、自分が嫌になるという方がいるかもしれません。でも勉強はゆっくりでもいいので止めずに続けて下さい!
「努力してもダメだったから、自分には才能がない」は確かにその通りかもしれません。
でもその時は「まだ限界まで努力できていない」ことにすればいいのです。そうすれば誰もあなたの底力は否定できません。何度だって立ち上がればいいのです。そして最後まで諦めずさらに努力を重ねれば一つ上の自分に出会える可能性があるはずです!

受験は本当にキツいですが、乗り越えた先に色々なことが待っているはずです。
僕の場合、受験期は大嫌いだった父が僕の慶應や横国の合格を喜び親戚に逐一報告していたことを知った時はとても嬉しかったですし、今や仲直りをしてよく一緒に泥酔しています。笑
         皆さんにも幸あれ!心から応援しています!!! 


リレーコラム⑪

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第11回は小寺先生につづき、AAの磯野先生の登場です。






こんにちは!
横浜国立大学 理工学部 化学・生命系学科 化学EPの磯野元志です。
よろしくお願いします。

高校3年生のとき思っていたこと、ですが思い返すと色々なことがあったなと懐かしいです。あの頃の自分はとにかく成績が悪かったのを覚えています笑。

私は中学から今までずっと吹奏楽を続けていますが、中学の吹奏楽部が超強豪で、中学3年生の時に全国大会に出場しました。その結果高校受験の勉強を始めたのが12月からと遅かったのです。勉強をあまり出来ないまま高校入試当日を迎えました。しかし、自分の得意な問題が多かったのもあり、柏陽に入学できてしまいます。私は「これはいける」と思い勉強しなくてもいいやと思いました。

結果が高校2年生の12月の定期テストで数学赤点です。
これはヤバいということで冬期講習を始め、受験勉強を始めたのが高校3年生でした。私の学力は高校入学時点で止まっていました。これを1年間で大学入学するために色々対策を立てました。

まず初めにしたことは、目標立てです。真っ先に第一志望を決め、それに向けて頑張ろうと思い込むことにしました。何となくかっこいい国公立大学に行こうと思い、横浜国立大学にしたのは、東工大以上の大学だと難しすぎて折れてしまいそうだったため、頑張れそうな中で1番偏差値が高かったのが横浜国立大学でした。まあ、もちろん近いというのも理由ですが笑。そして化学生命系学科にしたのは、1番得意なのが化学だったことと実験が好きだったためです。

次に勉強の年間計画を立てました。1番苦手な英語は地道にやるしかなさそうだから、毎日やる。数学は夏休み前までにfocusgold2周それ以降はよく間違える問題の周回、得意な化学物理は夏休み入ったら問題集たくさん周回する。つまりは、つべこべ言わずに遅れを取り戻せるように苦手分野をたくさん勉強しました。

第三にスマホとの距離のとり方の工夫です。私はスマホ大好き人間なため、規制することにしました。昼の12時~13時、夜の21時~22時を使って良い時間とし、残りは理由なしには触らないことにしました。

今思い返すと、成績がだんだん良くなってる感覚があり、遊び暮らした高校12年の時よりも、勉強ばっかしてた高校3年生の時の方が充実してたように感じます。大学入学出来たのはこととき頑張ってくれた自分のおかげですね、ありがとう。

以上で終わらせますね。他にも書こうと思ったこともあるのですが、国語が苦手で文章がまとまりそうにありません笑。読んでいただきありがとうございました。

2019年12月1日日曜日

リレーコラム⑩

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第9回は小林先生につづき、小寺先生の登場です。





高3のころ考えていたこと



小寺です。

私が大船に来てから約半年、みなさまいつもありがとうございます。

私が高校3年生の頃は20年前くらいになりますね。

たまごっちというものが流行っていて、、知っていますか?皆さん。



さて、私は無事大学生にはなったのですが1年浪人してから大学に入りました。

なので勉強に本腰を入れるまでそれだけの時間を要してしまったということですね。

成功例は現役で見事に合格したアドバイザーのみなさんのコラムを是非参考にしてください!



私が話せるのは失敗談ですね。



そんな私が高校3年生のころに考えていたことは「受験が早く終わらないかな」と思っていたことです。今のみなさんの頑張りを見ていると本当にすごいなと日々思います。何となく時が過ぎていけばなんとかなるだろうと常に思っていました。中途半端にまじめだったので友達と一緒に夜まで学校にいて自習をする日々をおくっていたのですが単語帳を“眺めたり”、時間をかけて少ない量の問題を解いたり、寝てみたり、休憩時間を楽しみにしたり。藤沢図書館で卓球をしたりした記憶しかない、、



さて、そんな私がそのまま受験を迎えたらどうなったでしょう!?



志望校も先生になりたかったはずなのに、なんとなく法学部とか商学部とかを受け、

もちろん全滅で1月くらいからもう翌年の予備校を探し始めるということをしていた記憶があります。今思うのは、やるべきことをやらないと大学入試は何とかならないこと。時がたつのを待っているような勉強方法をしていては成績なんてあがるはずがないということですね。もう1年受験した時は充実していたのでまだまだ受験勉強していたい!と本気で思っていました。基本的に本腰を入れるのが遅いので大学に入ったらまた色々行動が遅くなって就職にまた苦労することになったんですけど、それはまた別の話ですね、、



もし少しでも参考になることがあれば嬉しいけど、無いかも。。。( ノД`)



さて後少し、困ったことがあったらいつでも相談してくださいね。



小寺より

2019年11月30日土曜日

リレーコラム⑨

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第9回は山口先生につづき、小林先生の登場です。

「高校3年生のころ考えていたこと」 小林かおる


こんにちは
みなさん、今日もハッピーに暮らしていますか?

私が高校生だったのは3億年前ぐらいなのですが、毎日必死に生きて考えて悩みつつ楽しく暮らしていたような気がします。


みなさんは勉強、順調ですか?
伸び悩んだり自分がやっていることが正しいのか不安になったりしませんか?

必死にやっても無我夢中でやってもうまくいかない、隣のあの子は上手にできて先生に褒められるのに、〜ちゃんはあんな成績なのに私はこれしかできなかった、とマイナスな考えがループしたりしませんか?

そんな時の高校生の私は先輩や先生、目上の人の話をよく聞くようにしてました。
先輩や先生がどんなことを今考えているのか、高校生の自分には理解できなくても半年後1年後、10年後の自分ならわかるかもしれない!と話しかけに行ってました。


その中で印象に残っている話を2つ紹介しますね。

「最初は真似するだけでいい。真似する中でどうしてこのようなことをしているのか考えろ」
先に行った先輩に比べたら右も左もまだわからないヒヨッコですので、まずは先人がやってきたことを模倣しろという話です。ただ、ひとつひとつの行為の理由を考えないと本質には迫れない、自分に落とし込めないということでした。

「人間は2223歳の時に考えていたことを4050歳になっても考えている」
この話をしてくれた先生は人間変わらないんだよ、というニュアンスで話してくれたのですが、高校生の私は22歳までに理想の自分にならなきゃ!と脳内変換しました。
理想の自分はどんな人間ですか?どんな考え、生き方が理想ですか?自分の根本はどのようなものですか?
5
年後の自分に誇れるような毎日を過ごせていますか?


偉そうなことを書いていますが、カンブリア紀の私も宿題が終わらないだとか授業中眠いだとか文句を言ってましたしロクでもない話をして友達と面白おかしく暮らしていたそこら辺にいるような高校生でした。
そんな私でも曲がりなりに進学して勉強して高校生の時よりももっとたくさんの人と出会って価値観の共有をして、そんな時期があったからこそ今も毎日楽しく過ごしています。

高校生のころ考えていたこと〜とはニュアンスが違う話をしてしまいましたが、毎日楽しく過ごすという基本方針は変わってません。
今日もイキイキ楽しく勉強しましょう!!!



大船校
小林かおる

2019年11月14日木曜日

リレーコラム⑧

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第8回はついに、校舎長の山口先生の登場です。


3の頃に考えていた事
山口 悠

大学に入るんだ!絶対にこの大学入るんだ!
などと素直に勉強している受験生だったか、僕は。振り返ると当然違う。

勉強は大学に受かる手段か、いやまさか。学問する事こそ目的よ。ただ、そのためには大学に受からないといけないから、受験勉強を精一杯やろう。そんなことを考えていたように思う。

その崇高な、意識高い系受験生はその後その立派な志を失い、大いに迷走することになるのだが、それは別の話で、この勉強の姿勢には一ついい事があった。勉強自体が楽しい事(もある事)、勉強を(時に)楽しんでやろうという意識を持てたことだ。

受験勉強はやはり苦しかったと思う。本来あるべきではないが、今までの僕の人生でもっとも勉強した期間であることも間違いない。学校から帰り、3時間程度昼寝して、夕ご飯を食べ、勉強をして、日が明るくなってから寝て、起きて、学校に行く。そんな生活サイクルで勉強をしていく中で、前髪が異常に目の前でちらついて集中できなかったり、下痢と便秘を順番に繰り返したり、振り返るとずいぶんストレスもかかっていたのかな、などと思う。しかし、そんな中でも悲壮にならず、継続して、結構な量の学習を積み重ねることが出来たのは修行僧のようなストイックさではなく、勉強をしていて、問題が解けたり、成績が上がったり、勉強している自分の努力を感じられたり、受験生であることに酔ったりして、楽しんでやれた(時もあった)事がとてもとても大きかったと感じる。

楽しんでやれることは強い。勉強を楽しんでほしい。

受験生へのメッセージで僕が必ず言う言葉はそんな自分の成功体験から来ている。
何度でも言うけど、だから、勉強していて楽しいって瞬間(絶対みんなにあると僕は勝手に確信している)を大事にこの大事な時期の勉強頑張ってほしい。

2019年10月31日木曜日

リレーコラム⑦

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第7回は細川先生の登場です。



3の時に考えていたこと

みなさん、こんにちは。
AAの細川です。

今回は、私が「高3の時に考えていたこと」についてお話ししようと思います。

といっても私が高校3年生だったのは、4年前。。
記憶もあまり定かではないですが、思い出せる限りお話ししていこうと思います。

私が高3の時に、考えていたことは2つですね。

1つ目は、「センター8割とれるように勉強しないと」ということです。

私は、高1の時から、横国の教育人間科学部に行きたいと思っていました。
というのも、教師になりたいと小さい頃(小学生あたり?)から思っていたんですね。
そのため、教員免許が取れる大学に行きたいと思ったのです。

そこで私は、勉強を本格的に始める前、大学合格にはどのくらいの点数を取れる力が必要なのかを考えました。すると、横国教育人間科学部の場合、センターで8割を取れば、2次試験で半分取らなくても合格できる!という感じでした。
なので、勉強では常に、「センターで8割とれるように頑張る」ということばかり考えていました。

逆に言えば、横国合格以外は考えていなかったので、
私立の難関大学に合格できるくらいまで勉強しよう!などとは思っていませんでした()
実際、私立大学にはあまり合格しませんでしたしね、、、
ボロボロのボロでしたね。

まあ、第一志望に合格したので、よいでしょう。
万々歳ですね。
こんなのが、1つです。

2つ目は、「遊びをいつまで許すか」ですね。

やっぱり、勉強していても、遊びたいじゃないですか。
私も、好きな人のライブや舞台、イベントに行きたい!!!!と思っていました。
でも、勉強となると、そんな遊んでばかりじゃいられないのだろうな、、、
と思ったわけです。

もし、遊びまくって、志望校に合格できなかったら、
落ちたのは遊びのせいだと思って、自分の好きなものを嫌いになってしまうかなとも思ったのです。

そこで、自分の中で遊びのラインを決めることにしました。
私は、5月のライブを最後にしようとしました。
夏休み前に、遊びは最後にした方がいいかと思ったからですね。

ただ、やはり、夏休みにずっと勉強はつらすぎる、、、
ということで、夏休みに1度だけイベントに行きました。

でも、それ以外は遊びをなくし、勉強を頑張ったと思います。

と、こんなところですかね。はい。

みなさんも、後悔のない時間を過ごしてほしいなと思います。
頑張りは、報われるもののはずなので。

困ったら、ぜひAAに気軽に話してもらえると嬉しいです。
そのために、私たちAAはいますしね。
もちろん、困ってなくてもいろいろお話してもらえると嬉しいです。
今回は、この辺で。

おしまい。

2019年10月11日金曜日

リレーコラム⑥

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第6回は水谷先生の登場です。

1年水谷怜央那


 リレーコラムの番が回ってきたので、私も去年何を考えていたかを振り返ってみた。
振り返ってみた結果、恥ずかしいことながら、櫻井先生のように世界を変えるという壮大でかっこいい夢や戸崎先生のような絶対に薬剤師になってやるというような確固たる意志を私は持っていなかった。もちろん何も考えずに生きていたわけではない。
 周りの大人たちに将来やりたいことを決めて、早く志望校を決めなさいとずっと言われ続けてきたので自分なりに将来のことを考えてはいたが、私はもともと飽きっぽい性格であることもあり、決めた夢をずっと追いかけ続けられる自信もなかった。
 しかし、そんな私でも目指してみようかなと思える目標ができた。将来やりたいことなんてまだ決められない、というよりわからないという人は、私以外にもきっとたくさんいるはずである。そんな人達のために少しでも力になれたらという思いで、私が目指してみようかなと思える目標を持てたきっかけ?経緯?を書き記したいと思う。
 知っている人も多いかもしれないが、私はずっとサッカーを続けており、高校でもサッカー部に所属していた。部活に所属する多くの3年生が夏休み前に引退して、受験勉強にシフトしていくなか、サッカー部は1次予選を勝ち上がったため、9月の半ばまで活動が続くこととなった。もちろん、より上に勝ち上がることがチームの目標であったため、9月まで部活を続けられることは嬉しいことではあった。しかし、受験勉強のことを考えると心配なところもあった。
 正直なことをいうと、夏休み期間受験勉強とサッカー部を両立させることはとてもしんどかった。体力的にもきつかったが、そんなことよりも周りが今日は何時間勉強したといったことを話していることを聞いている時が一番きつかった。どんなに頑張っても勉強時間では勝てないことや周りから聞かされる受験の厳しさで今のままで本当にいいのかという思いで毎日を過ごしていた。そんな風に過ごしていた夏休みの間に、目指してみようかなと思える目標を持てるきっかけがあった。
それはサッカーのロシアワールドカップである。こんなことを言うとマナビスの方には怒られてしまうかもしれないが、私は、どうしてもみたい試合だけ見ていた(ごめんなさい)。もちろん試合も手に汗握るものばかりではあったが、私が特に興味を持ったのは試合前に放送されるチームや選手の紹介ムービーである。その試合の注目選手の経歴やスーパープレーの映像を見て、私はそのあとの試合を見るのがもっと楽しみになっていた。
 試合を盛り上げていくのは、選手や現地のサポーターだが、現地にいない日本のサポーターや今までサッカーに興味がなかった人達の熱狂を生み出すのはテレビなどメディアの影響が大きなことに気づいた。そのことに気づいてから、私は見ず知らずの人に様々な感情を抱かせることができる映像製作に関係する仕事についてみたいな何となく思うようになった。
 長々と書いてきたが、私が伝えたかったことはやりたいことは意外と近くに転がっているということといつか変わってしまうかもしれない夢や目標でもとりあえず目指して、目標が変わったら変わった時点で、またその時考えればいいということである。
 まだ、19年しか生きていない私がこんなことを言うのもおかしなことかもしれないが、私の経験が少しでも他の人のためになればと思う。
 
 では、次の人にバトンタッチ!!

2019年10月10日木曜日

リレーコラム⑤

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第5回は久松先生の登場です。

こんにちは!

上智大学 文学部 新聞学科3年
久松美波です。


高校3年生。
今からもう3年も前のことなのに、まだまだ鮮明にあれこれ思い出されます。
楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと。
受験生という平坦な毎日を過ごしていたからこそ、些細な出来事も記憶に残っているのかもしれないですね。

今から9年前、私は鎌倉女学院という地元の中高一貫校に受験をして入りました。
華やかで優雅な夢の女子校ライフ、、、と思いきや、私が入学したのはどうやら動物園だったみたいです。とても「可愛らしい」とはいえない学校生活でしたが、私にとっては賑やかで楽しい毎日でした。でも、中学3年生の時と高校1年生のときは魔の2年間でした。特に理由はないのですが、あまりにも刺激の毎日に少し飽きてしまったのです。地元の公立高校に友達が入学し始めていくと、急にみんながあか抜けていって、いわゆる「JK」になっていったんですね。高校受験もなかった私にとってなんだかこの時期はすごく自分の生活が閉鎖的でつまらなく思えました。これって中高一貫あるあるですよね?(違うかな)

あとは、あれだ。
自分が悪いんですが、私成績が全く良くなくて。
5回バレエの稽古に通って終電帰りをする日々だったといういい訳も一応あるのですが、もちろん私の努力不足でもありました。成績は下から数えた方が早いのは当たり前。数学は追試じゃない時の方が少ない。まさに、「沼」の時期でした。

そんな毎日が一転したのが高校3年生の4月。周りがどんどん受験生になっていくのにつられて、私もなんとなく受験生になっていきました。この時にマナビスにも通い始めました。それこそ、もっとつまらない日常になっていったと見えるかもしれないですが、、、大学受験はまさに、私にとって「刺激」でした。こんな一大イベントに参加できるのは人生一回きりですからね。謎に私のエンジンは全開になっていきました。学校の成績も苦手だった理系科目がなくなったことから急上昇し、波に乗りました。

今、勉強さえ頑張れば待っているのは人生の夏休み!(大学生活のこと)

この浅はかな希望さえも勉強の支えになりました。
志望校の設定や、この学部を選んだ理由について、よく聞かれますが、正直「フィーリング」です。なので、系統問わず、色んな大学や学部を受験しました。どこにしろ、入学したら道は開ける、そう信じていました。こんな楽観主義者あんまりいないですよね

でも!実際その通りでした。大学に入りさえすれば道は開けるものです。興味の幅って無限大ですからね。万歳!

高校3年生の時の私、勉強を頑張ってくれてありがとう。

今でもこの気持ちでいっぱいです。

一人でも多くの受験生の健闘を祈っています。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

2019年10月1日火曜日

リレーコラム④

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第4回は中澤先生の登場です。


中澤透子です。よろしくお願い致します。


私は小学生の頃、「毎日同じ制服を着るのがいや」という理由で
中学受験をし、中高一貫の制服のない学校に通った。

中学でバスケ部に入り
高校三年生5月の引退までそれなりに忙しい日々を過ごしていた。

数学が得意で暗記が苦手だったのでとりあえず理系に進み、
進路をちゃんと考えるようになったのが高校三年生の時だった。


正直なりたい職業なんてなかったけれど、
漠然と「世の中を良くしたい」とは思っていた。

特に環境問題については優先して取り組むべき課題だと考えた。

そこで、工学部に進みエネルギーや機械工学を学び、
環境にやさしい発電技術の開発などをやろうと思っていた。

結局浪人時に時代はバイオだと思い進路は変えてしまったが。

志望校を東大にしたのは高三の夏休み前だった。

理由は、学費的に国公立が良かったのと、
塾や学校の先生に東大も狙えなくはないと言われたこと、
志望校が東工大のままだと夏休みに
何となく手を抜いてしまいそうだったからだ。

志望校を決めてからはたくさん勉強した。
あと、どうすれば自分の成績が効率よく伸ばせるかを考えた。

つらいこともたくさんあったけれど、
塾の授業ははじめて聞く話ばかりだし、
勉強すれば問題は解けるようになっていくし
結構楽しんで受験勉強していたと思う。

以上が私が高校三年生の時考えていたことだ。
このしょうもない世の中、少しはましにしたいですね。
読んでいただきありがとうございました。

2019年9月6日金曜日

リレーコラム③

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第3回は社員より、纐纈先生が登場します。

高校は制服も校則もない
「自由」の塊のような場所でした。
高3の時に何を考えていたかというと、
めっちゃくちゃ人生について
悩んでいたようで、実のところ
それほど考えていなかったいうのが正解です。
でも、なんかデカいことや楽しいことやりたいなーって。

僕の高校は東京都立大学附属高校というところで、
当時は大学だけ首都大学東京っていう
キラキラな名前に変更されてました。
首都大の影響もあり地理や地学の学習と
第二外国語に力を入れられてるカリキュラムで
高校2年生までは8時間目まで授業がありました。
8時間目まで授業して部活やって、、へとへとで。
友達と都立大学駅前のファミレスで部活終わりに
夜遅くまで夢を語ってゲラゲラ笑ってる高校生でした。
帰り道はできるだけ遠回りして
好きな子たちと一緒にいたい毎日でした。

高校3年生からは
午前中までしか授業がなくて、
0時間目という日本史・世界史の
補習授業があるだけで、
午後はみんな塾や自習をしようっていう
スタンスの進学校。
なんとですね、僕はクラスの男子で
一人選ばれる奨学生になり
毎月6万円お小遣いをもらいました。
全部、洋服に消えました。

生徒の半分は推薦で進学が決まる中、
僕は「推薦」の余白を残しながら
一般受験をしました。
そんな中で、音楽大学に行くか、
一般大学に行くかで迷っていて(悩んではない)
夏休みは1週間音大の夏期講習に通い、
河合塾とトフルアカデミーの夏期講習に通いながら
9月の文化祭の準備をして、
学校の音楽室で一日5時間以上ピアノを
弾くという多忙な受験生でした。

実はずっと本格的にバンド活動をやっていて、
(この後CDデビューをしてアルバムの発売に合わせて
全国ツアーに出るという経緯があるのですが、、、iTunesストアで
アルバム買えるので買ってください(笑))
大学で作曲や音楽の勉強をするか、
一般大学に通いながら
音楽を続けるか夏休みを過ぎても決めきらずに、
ひとまず音大の秋の給費推薦入試を受けました。
まぁどっちにしろ音楽をやりたかったんですね。

高校では音楽の先生と週2で近くの蕎麦屋にランチに
行くほど仲が良くてエアコン効き放題の
音楽準備室の合鍵ももらってました。
音大への推薦も高1からコードの作曲を教えてくれてた
音楽の先生がお勧めしてくれました。
この先生には感謝ですね。
でも、私立の音大の学費は医学部に並ぶくらい高額で
全学学費免除で合格したら音大に行こうって思ってたので、
先生の推薦もあり半額給費で合格できたのですが、
半額でも一般大学の倍くらいなので音大は断念して、
ずっとあこがれていた
上智大学に行こうって一般受験に踏み切りました。

まぁ、結果はわかりますよね。
どっちつかずでいることは
どっちも得られないってことです。
この時、早い段階で自分の進路を一つに絞れて
直進できていたらまた違った人生だったのかも知れません。

結果、バンドマンをやりながら大学も楽しんで、
全国ツアーをして学祭実行委員長やって
好きなバンド呼んで、広告会社に就職して
近くの大学の文学部に通いながらコピーライターとして働いて、
友人と会社を立ち上げ、事業拡大で沖縄に一年間住んで、、
なぜか今はマナビスで働いています。

現役時代の大学選びに迷った僕は、
それから一つのことを決めたらそこに向かって
一直線に進んでいくことを学びました。
そしたら、意外と自分のやりたいって思ったことは
できている人生です。
まぁ、その分失敗も数えきれないくらいしてます。

色々迷うことがたくさんあると思うけど、
まず1つに決めてみて、そこにひたすら進んでみる!
まっすぐに進んでいけるということも若さの特権です。

そして、一つ成功すると
また次のチャレンジをするときに成功の方法を
知っているので成功しやすくなります。
正の連鎖です。

まずは成功を1つつかみ取って欲しいですね。
つまづいてもぶつかっても
ヨロヨロと立ち上がって!!
夜明けまではかっこ悪くていいって聞きました。


今思えば、高校や大学時代は自分の黒歴史だらけです。
恥ずかしいことばっかりです。
気絶しそうです。
ノートに書き溜めた歌の歌詞とか
当時書いてた日記とか、プリクラとか
もう絶対に見れません。
海底500mくらいまで沈めてしまいたいです。

甘酸っぱいですね。青春って。

みんなも
たくさんのことに、恋してください。

ぶっさんでした

2019年8月22日木曜日

リレーコラム②

河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


第2回は1年生の戸﨑先生(慶應義塾大学・薬学部)です。



3のころ考えていたこと                     

1年 戸﨑舞衣子

文才に長けた櫻井先生の直後でだいぶ緊張しているが、
今回は私、戸﨑舞衣子が昨年考えていたことを振り返ろうと思う。

私は6年生時に国試を受け、薬剤師になるべく現在薬学部に通っている。
小さい時から人体に興味があり、且つ中学生で化学の面白さに気づいてから
薬学部一筋で今日まで来たわけだが、
昨年受験生ながら特に考えていたのが薬剤師としての在り方だった。

まだ国試すら受けてないのに、何を...!
と思う方もおられるかもしれないが、
如何せん第一志望の小論文で何年も前からこのテーマが設定されており、
やはり人の命を預かる職業である故に考えざるを得ないことであると実感していた。

皆さんはチーム医療と医療チームの相違をご存知だろうか。
前者は複数の専門職が文字通り連携を促進し取り組む医療、
後者は一つの目的のために形成されたチームを指す。

近年国際規模で将来様々な職業が人口知能に淘汰されると言われているが、
その中でも薬剤師は消滅しにくい部類に含まれる。
それは構造が複雑な薬を扱う職業であるからなのではなく、
多職種との連携、患者との信頼関係が存在して初めて成立する職業であるからだ。

そのようなわけで日本では数年前から盛んにチーム医療を導入する働きが行われ、
私も薬剤師になろうと確信した高1の頃はぼんやりとチーム医療で貢献しようかな...くらいにしか考えていなかった。

しかし小論文の対策を始めた昨年の春頃、
薬剤師の魅力とでも言おうか、自分のなりたい薬剤師像を掴むこととなった。
単なる“チーム医療の一員として働きたい”は誰にも言える言葉であり、
高い学費を出してもらう両親のためにも自分はどのような
薬剤師になりたいのか色々考えた。

薬学だけでなく在宅医療、終末期医療、移植、iPS細胞、
優生思想、ゲノム、サイコパス、人工知能などに及ぶ
あらゆる書籍を読み漁り最終的に行きついたのが以下である。
“患者をトータルに診られる薬剤師になる”ことだ。

薬は大抵身体に不具合を抱える人に与えられるもので、
服薬指導などは薬剤師にしかできないことだが、
そもそも“患者=病人”として診るのではなく、
“患者=人間+病気”と捉えることで服用に限らず、
患者のその後の人生を視野に入れた医療を提供することが出来る。
そしてそのためには専門分野を生かすだけでなく、
先述したようにチーム医療によって他の医療従事者と連携することで、
多方面から患者一人一人の生き様に沿った医療を展開できる。

換言すると、
私は“薬を服用する患者目線で医療を提供できる薬剤師”を目指そう、
という結論に至った。
今はまだ高校の授業を延長したような講義しか受けていないが、
昨年定めた薬剤師像のおかげで一つ一つの実習も毎回学びが多く、
大学生活は非常に充実している。
これからの経験によって今後薬剤師像が変わるかもしれないが、
将来を見据えて向き合えた高3の一年はきっと自分の財産の一部だと信じ、
今も有機の参考書と戦っている。
ご精読有難うございました。


2019年8月2日金曜日

リレーコラム①


河合塾マナビス大船校のアドバイザー&アシスタントアドバイザーによる
リレーコラムを掲載していきます。

テーマは「高3生の頃考えていたこと」


記念すべき第1回は櫻井先生におねがいしました。



2014年、遡ること5年前の高校3年生の櫻井青年は、
いったい何を考えていたのであろう?

「アフリカ」から「ラテンアメリカ」そして「世界」という3つの軸を中心に思い出してみる。念のためここで少し櫻井という人間のバックグラウンドを述べておこう。私は「ウルグアイの帰国子女」なのである。それも、20代の3年間をパラグアイで過ごした父&英米文学科卒の母を持つ、根っからの「グローバル・ボーイ」なのだ。というわけで、私が「外交官」「国連系」を幼少期から目指していたのは、偶然ではなく必然であったと言えるだろう。そして、いつかは「世界を変える!」「貧困・飢餓をなくす!」なんていうデカいことを考えていた。

 とはいえども、その夢を抱いた小3から、様々な葛藤などがあり、何度もよそ見をしてきた。そんな櫻井青年は高校3年の夏に大きな決断をした。「何になるか迷っている時間はない、とりあえず“アフリカ地域”について学ぼう。英語・フランス語・スワヒリ語も学ぼう。そして、2年間アフリカの国で一生懸命学ぼう!」そう決意した。目の前にあることを必死にこなせば、外交官でも国連職員でもNGO職員でもなれる!とにかく、自分は「国際系で日本で一番の大学に入る!」そして夢を実現すると誓ったのだ。

 しかし、同年にあの「エボラ出血熱」がアフリカの一部地域で大流行した。更に、ナイジェリアを拠点とする「ボコ・ハラム」の活動の拡大。受験生の多くがおそらく気に留めることなく、勉強をしていたであろうが、一言では言いあらわせない動揺が私を襲った。文字通り「眠れぬ夜」もあった。「アフリカ地域専攻で本当にいいのか??」すごく悩んだ。ここでは理由の詳細は省くが、とりあえず最後の最後に「ラテンアメリカ地域専攻」に変えた。別に逃げたわけではない。「留学で家族に心配をかけたくない」、「きっと日本に帰らず退学してしまう」そう思い、志望専攻を変えた。無事、合格!万歳!

 「なぜラテンアメリカにしたのか?」と聞かれたら、正直に答えよう「昔住んでいたから」、「ラテンのノリが好きだから」が答えだ。というのは、半分冗談で半分本気。御幣を招きかねないから一応説明すると、「アフリカにこだわることない、ラテンアメリカ地域専攻でもやりたいことはやれる」と気づいたからだ。という経緯で、私は「ラテンアメリカ地域専攻」になったのだ。どの地域を専攻にするにせよ「いつか世界をフィールドにして働く!」「そして、世界の貧困・飢餓・差別をなくす!」と改めて自分と約束をした。

 これが「高校3年生の頃」櫻井青年が考えていたことだ。
ちなみに今私は「開発経済学」を学んでいる。気付いたら、自分の夢の実現に近づいている、そんな気がする。いや、そう思いたい。